医療法人財団池友会創設者・初代理事長カマチグループ会長
蒲池 真澄
昭和49年、19床でスタートした下関カマチ病院から45年。カマチグループは病院23、学校6を運営する医療法人として成長してきました。 これからの10年間は回復期のリハビリテーションにも一層、力を入れ、今後、首都圏で10~20の回復期医療施設を新設し、高齢化社会の医療に携わる者としてスタッフ一同、最善の努力を続けます。
蒲池:下関カマチ病院を開院したときから「厚生省(当時)の政策を10年先取りして動かねば」と考えてきました。当時、救急対応していたのは当院と久留米の聖マリア病院くらいで、普通に治療をすれば助かる患者さんが手遅れで亡くなっていました。
国内で事故に遭えば、ベトナム戦争の戦場よりも死亡率が高かったのです。小倉に小文字病院を開院し、よその病院が受け付けない患者さんを、うちの技術と医学知識で治療し、全体をレベルアップさせてきました。福岡、北九州の医療現場から「タライ回し」を無くしたのです。
蒲池:24時間365日体制のER救急センターは十分に機能しています。救急はスピードが勝負です。地上を救急車で時間をかけるよりヘリで拠点病院に搬送し、ICUで治療を受けることで救命率は上がります。
医師や看護師、パイロットや整備士が常駐し、救急に備えています。
蒲池:市民の健康や生活改善に熱心な樋渡市長さんと一緒に、病院のお手伝いをさせていただきました。市民の皆さまにも喜ばれているようです。現在、新しい病院を建設中で平成23年には竣工します。急性期や回復期と合わせて135床の規模になる予定です。
蒲池:誰もが高齢化して行きます。将来は医療費のほとんどが老人医療に占められることは明白です。日本の年間医療費は約35兆円で、ほかに高齢者の介護費が10兆円かかってます。国は医療費抑制に力を注いでおり、10年先を読んで対応できない医療機関は今後、脱落していくでしょう。そこで、この先、10年で首都圏に10~20の回復期施設を展開し、そこでの地域医療に尽くしたいと考えます。
蒲池:下関で救命医療に励んでいたとき、当時18歳の若いセラピスト山崎嘉忠君が就職してきました。当時は早期のリハビリはいけないとされていました。しかし、彼が手術後の患者さんにリハビリを施すと、何もリハビリをしない患者さんと予後が違っていました。あきらめていた患者さんもその様子を見て、生きる希望が湧き、リハビリに向うようになったのです。
蒲池:急性期病院の医師は患者さんの生命を救うことに全力を傾けます。一方、患者さんからすれば命が救われた後は、健康だったころの「日常生活動作(ADL)」の回復を考えます。歩行、食事、衣服の着脱や排泄、入浴などの動作です。救命がADL回復のスタートで、診断がついた時点からリハビリが始まります。後遺症が発生した患者さんでも3ヶ月から半年リハビリを受けることで約8割はADLレベルが回復し家庭に戻れるようになります。しかし看護師、PT、OTや言語聴覚士(ST)はまだまだ不足がちで、6つの専修学校で育成を続けています。
蒲池:病院の運営はオーケストラの演奏によくたとえられます。ヴァイオリンやフルートなど実に32種類もの楽器が指揮者のタクトの元で最高の演奏を聴かせます。病院も医師だけでなく看護師や薬剤師、技師、訓練士、事務、厨房、清掃など全職種が責任を果たしてこそ全体のハーモニーが生まれ、最高の医療現場となります。私は今後も「手には技術、頭には知識、患者さまには愛を。」をテーマに命を懸けて進みます。基本は、救急救命です。レベルアップを進行したい。それを支えるリハビリです。
【プロフィール】 医療法人財団池友会創設者、初代理事長 カマチグループ会長
昭和15年4月14日、福岡県八女郡黒木町生まれ。 蒲池家は江戸中期から8代続いた医師の家系で、蒲池真澄で9代目となる。 昭和34年 福岡県立修猷館高校卒業、昭和40年 九州大学医学部卒業。東京虎ノ門病院でインターン(1年間)、九大大学院医学研究科、下関市立中央病院、福岡大学医学部に勤務。 昭和49年に今日の池友会グループの礎となった下関カマチ病院を開院し独立、救急医療に取り組む。昭和53年に蒲池真澄個人の寄付行為によって【医療法人財団池友会】を設立。 昭和56年に北九州市に小文字病院を開設、続いて昭和62年に福岡市東区に福岡和白病院を開設した。現在までにグループ病院を含めて全国に12病院と6つの学校(職員約4400人)を擁する。 現在は、基本の救急救命の池友会イズムを保ちつつ、首都圏で回復期リハビリテーション病院を展開し、急性期から在宅医療に至るまで幅広く尽力を注いでいる。